夢中になるってどういうこと?②

む今多くの場面で、その解決策になっているのが「ゲームをすること」だと思う。
ゲームというのは、ちょうど良い達成感を得て夢中になって行くことが設計の理念なのだから、夢中になるという目的を達成するにはもってこいだ。

私もお正月はゲームをできるというのは嬉しくて、ほとんど外で遊んでいなかった気がする。
だからお正月に子供に楽しく遊んでもらうにはゲームを買おう!ということになるが、
自分が夢中になれるものを自分で作っているのとはちょっと違うように思う。

私がもっと何かに夢中になりたかった!と思っていたと感じるのは高校生のころで、
ゲームをする時間もたっぷりあったけれど、
もうそれには飽きつつあった私は、何かをしたくてたまらなかった。
例えばその頃にプログラミングにでも適切な形で出会っていたら、
随分楽しめていたんじゃないかなと考えてしまう。
(もっとも何かには出会っていたはずなので、ハマり方を知らなかっただけかもしれないけど)

具体的に何がしたかったかはわからないけれど、とにかく時間をもっと有効活用できていたような気が無性にしてしまうのだ。
私の場合は、会話に意味を求めたいタイプなので、
共感を交換する女子同士の会話はいまいち楽みきれずに、常に何かがしたかったのだ。

夢中になるってどういうこと?①

年始は子どもといる時間が多いけれど、出かける先はあまり空いていないから、
近くの公園に行くことが多くなる。

滑り台で1歳の息子を遊ばせていると、
5歳くらいの男の子がかまって欲しそうな様子でやってきた。
当たり前だがなかなか一人では滑れない息子を横目に、
得意げに頭の方から滑り降りる様子などを披露して来る(笑)

男の子らしくて微笑ましく、「お兄ちゃんすごいねー」と声をかけながら、
親御さんはきていないのかな?と見ていると、後から小さな赤ちゃんを連れたお父さんがやってきた。
「そうかー。目が離せない赤ちゃん連れになってしまったら、お父さんも今までのようには遊べないよね」
と勝手に想像しながら見ていると、
他にも「楽しい!」というより「ちょっと渋々」といった様子で遊ぶ子どもたちが多いのに気づいた。なんというか、ちょっと仕方なしに遊んでいる感じ。

「仕方なく」「遊ぶ」というのが不思議な取り合わせという感じがしたのだけど、
自分が子供の頃を振り返って見た時に、「いつも夢中で遊んでいたかというと、そういうわけでもなかったなー」と納得しつつ、
でもできれば遊ぶときは夢中になれた方が楽しいよねー。
夢中になるっどうやって起きるんだろう?と考えた。

息子は今、体の動かし方を学ぶのが楽しくて楽しくて仕方がない感じ。
最近のお気に入りは階段を登ることで、放っておくと何往復でもしている。
(完全に一人でできるわけじゃないから、付き合うと腰が痛い 笑)
自分の今のレベルにちょうどいい課題に取り組んで、できるようになって行く過程は大人も楽しいから、息子の気持ちはわかる気がする。
では、5歳くらいになって、公園の遊具もあらかたマスターした子にとって、
楽しい課題や遊びってどんなものなのだろう?

一つの要素は友達や親と一緒に遊び、その中で起こるインタラクションを楽しむことなんだろうけど、そういう状況だとしても「何をテーマにしたら盛り上がるか?」というポイントは残る。
夫にそんな話をしたら、
「親父はキャッチボールが男の子との遊びの象徴と思っててやりたがったけど、自分は大して面白いと思わなかったんだよね」
と言っていた。
つまり、一緒に遊べばいいというものではなく、どういう設定で遊ぶかがポイントになる。例えばもしかすると、お父さんが元野球少年で、コントロールがしやすい投げ方とかを伝授してくれていたら、それをマスターする過程が楽しかったかもしれない。
そういうのを自分で見つけていけるようになるには、どうするのがいいんだろう?

(続く)

 

戦略の始まりは目的地をはっきりさせることから

事業戦略を作るときに、よく持ち出されるのが前年度との比較だ。
しかし、その数字に根拠があることは少ない。
「前年までの伸び率がそのまま続くとすると」だったり、
それに「周囲の環境変化を織り込むとどうなるか」が加わるだけだったりする。
それが悪いわけではないけれど、これでは中々やる気が出ないことが多い。
なぜ、その数字を達成しなければならないのか、腑に落ちていないから。
特にその数字が上から降りてきただけという日には、義務感こそ湧いたところで、
中々やる気が湧かないのが人情だと思う。

戦略を作る時、本当はやるべきなのは、「どこに行きたいか」を定めることだ。
戦略は現状と目的地をつなぐために、何をやるべきかの方法論なのだから、
目的地がわからなければ本来は作れない。
そしてその目的地は、本当にそこに行きたいと思うから頑張るのであって、
「このまま、ちょっと早足で歩けば到達できるから」
(今より少し頑張れば、達成できる目標だから)
そこに向かうのではないはずだ。

優れた経営者は、明確な目的地を持っていることが多い。
そして、その目的地が”絵に描いたもち”ではなく、実際にそこに繋がる事業をしているから、人々から信頼と共感をうむ。

別に経営者でなかったとしても、同じこと。
言っている事とやっていることが一致すれば、人はその人を信頼し、共感する。
もっと言えば、特に何かを語っていなかったとしても、
やっていることがいつも一貫していれば、人はそれをなんとなく感じ取っている。

なので、まずはそういう「目的地」を持つところがスタートになる。
でも「本当に行きたい目的地」を持つことは、結構難しかったりする。
なので、次にどうすれば「本当に行きたい目的地」がわかるかを書いてみたいと思う。

魂のための時間

「忙しくて時間がない」
「やりたいと思っていたことが、何一つできずに1日が終わってしまった」
そんな風に思って無力感に襲われてしまうことがありませんか?

私も特に子どもが生まれたころ、
「ああ、もう1日が終わってしまった!何もできてない!」
とがっかりしてしまうことが増えたように感じていました。 
でも実はそれって、一日中仕事をしていた頃も実は同じで、
自分がやってみたいと思っていたことに時間を使えている訳ではなく、 
でも仕事した感はあるから、まあ、いっか...と誤魔化しているだけと気付きました。


そもそもやりたいと思うことができていないというのはどんな状態かというと、
・やりたいと思っていけど、そのための時間を用意していない
・やりたいと思っているけど、実際それをどうやったらいいかわからない
という状態だと思うのです。
それがわかって、時間を確保!したり(その方法はまた書いてみます)
やり方を調べてみよう!と動けたりすれば、それでOKです。
でも、「そんな時間ない...」となったり、「そんなことできない...」となったとしたら?
実はこういう場合は、まず
「なぜそれをやりたいと思ったんだっけ?」
ということに立ち返るのがオススメです。

私の場合、子どもが生まれた頃に一番欲しかった時間が、
「静かにゆっくり考える時間」でした。
カフェに座って、これからのことをああでもない、こうでもないと考える時間。
それが私にとって大切な時間でした。
(これは人それぞれで、人によっては「人にあって話す時間」だったり、「美味しくご飯が食べられる時間」だったりするかもしれません。)

しかし、そんな長時間は確保できなかった当時。考えたのは
「なぜ私は、静かに考える時間が欲しいのだろう?」
ということでした。
私の場合、単純に考えることが好きだったのですが、なぜかというと
考えていく中で、気付きを得た時の瞬間がたまらなく好きだったからでした。
さらに言うと、静かに自分に向き合って、自分のことに気づけた時、とても嬉しいと感じられることがわかりました。
そこで、短い時間でもその感覚を味わう方法は何かないだろうか?と考えてみることにしました。

そこでやり始めたのが、スキマ時間に自分が感じた違和感のメモを取ることです。
それまで私は、考える時間というのはまとまった時間でなくてはならない、と思っていたのですが、ふと感じた瞬間にメモを取ることで、新鮮なうちに書き留めることができ、短い時間でも”考える材料”のようなものが手に入ることに気付きました。
(義務にしてしまうと辛くなるので、気が向いた時、としてみました。そもそもやりたくて始めたことなので)

すると、時間にすればかなり短い時間なのに、
大きな充実感や安心感が手に入るようになったことに気づいたのです。

 

逆にいうと、充実感が大きければ、たとえそれがとても短い時間だったとしても大きな意味を持っているように思います。
自分らしいと感じられる時間が少しでもあると、それを栄養に次に進んでいける。
(この仕組みは後でまた書こうと思います)

それはささやかであっても、自分の魂のための時間だと思っています。


皆さんはどんなことをやりたいと思っていますか?
また、それをやりたい、と感じるのはなぜでしょうか?
小さなことでも少しやってみる、その一歩が大きなことに繋がっていくのだと思います。